【➀オゴタイ汗】
モンゴル帝国を創始したチンギス・ハンは、中国の「金」王朝の撲滅と西方遠征を不完全なカタチなまま1227年に亡くなってしまいました。それを本格的に成し遂げたのは、第二代皇帝オゴタイ・ハンによってでした。「金」王朝を滅ぼし、さらに1241年ワールシュタットの戦いでポーランド西部においてはヨーロッパ勢に対して決定的な勝利を成し遂げています。ただ、オゴタイ・ハンが西方遠征を本格的に進めた理由として、かつてチンギスハンが7年における西方遠征を行い、中国以外にもそれに匹敵する高度な文明が世界各地に存在する事を知った事もあるようです。
■オゴタイ汗の生涯■
オゴタイは1227年、チンギス・ハンが亡くなることによって、第二代モンゴル皇帝になりました。
➀末子相続
遊牧民は、末子相続が一般的だが四男であるトルイ(後の第五皇帝クビライ汗の父でもある)が三男に譲ったため、オゴタイが継ぐことになりました。トルイは2年程摂政としてオゴタイを補佐したようです(また金王朝撲滅後は、河北省あたりをオゴタイはトルイの家族に与えている)。
②金王朝撲滅
そして1234年には、金王朝を撲滅しています。オゴタイは、金王朝の南側に位置する南宋と手を結んだのです。南宋は宿敵の金王朝がモンゴル軍のお陰でついに撲滅に追いやれるチャンスだと思ったようです。金王朝の皇帝が南宋の国境近くに逃げてきたところ、南総は追撃してついに金王朝の最後の皇帝は自決したようです。その後、南宋はモンゴルとの同盟条項違反をしてモンゴルと戦争をすることになるのですが防戦に徹し、第五皇帝クビライの時代まで持ちこたえます。
③国際都市としての首都と今後の方針
金王朝に勝利し、モンゴリア高原のオルコン河畔に壮大なカラコルム(和林ともいう)城を建て、周囲に諸王侯、貴族大官の邸宅を建築し、新しい都市を作りました。この年は、かなり国際的な行き来があるような都市になり、1259年第四代皇帝モルケ汗の時代まで首都となります。そしてここで重要な会議(クリルタイ)を行い、南宋方面と西方遠征の二大遠征と、あわせて高麗(朝鮮半島)、カシュミールへの遠征計画をしました。
④西方遠征
1235年の方針による遠征は、かなり重役で皇族の者たちも多く遠征にでました。チンギス・ハンの長男の子であるパトゥはヨーロッパ遠征軍の総司令官となり、1236年にはロシアに攻め入りました。そして1241年にはポーランド西部に攻め込み、ヨーロッパ勢と戦う「ワールシュッタットの戦い」が行われ決定的な勝利をモンゴル帝国は成します。しかし、1241年オゴタイが飲酒により亡くなり、ヨーロッパ遠征は中断せざるをなくなりました(パトゥの意にそぐわないモンゴル帝国の内政に変わった面もあったため)。このオゴタイの死は、単にお酒の飲みすぎというより、相続問題などに関してかなり争いが起きていて、オゴタイが生きている内に相続者が一時的に名乗りを上げたり、ストレスが溜まって飲酒に頼ったともいわれています。そのため、オゴタイの意志とは裏腹に、オゴタイの皇后の政治工作によって第三代皇帝は決まることになります。
⑤オゴタイの評価
オゴタイの評価として、金王朝撲滅と西方遠征を本格化させたことと新たに首都を作ったことの他に、駅伝制を取り入れ帝国内の連絡の行き来を密にした功績があるとも言われています。ただそれは一方では帝国の領土が急速に広がりすぎて連絡を密にとらないとやっていけない状況になってきたとも考えられます。また相次ぐ対外遠征や新首都建設により財政悪化も重なり、結局は領土間の連絡が密に取れず、次第に帝国の一族間における分裂の兆しが見え始めているのもオゴタイの時代であります。※『マルコ・ポーロ 東西を結んだ歴史の証人』佐口透、『物語 中国の歴史』寺田隆信、『世界の歴史』学研などを参照し、後は英語版ウィキペディアを主に参照。
【②クビライ・ハン・中国の文化と接する】
元寇を行うが、マルコ・ポーロを登用した皇帝でもあるモンゴル帝国の第五皇帝クビライ・ハン。彼の父が皇帝の継承権を譲った事により一時モンゴル帝国の主力から外れるが、これが意外にも中国文化との交流につながったようです。元は、中国の文化よりもモンゴル式の制度によって運用されたり、肉料理や香辛料を使った味付けや蒸留酒を飲む習慣などを持ち込み、さらに南宋で迫害されていた朱子学を公認したなど、モンゴルの影響が強いとみられるが、クビライは中国の文化に関心を持ったようです(土地の統治という政治的な理由もあると思いますが)。
■➀第二皇帝と父■
クビライは1215年にチンギス・ハンの四男トルイの息子として生まれました。末子相続が基本的な遊牧民族であったため、相続は四男のトルイのはずでしたが、トルイは三男オゴタイに譲りました。そして1227年、第二皇帝に三男のオゴタイ・ハンがなった際、二年程クビライの父は摂政みたいな地位にいたようです。
■②チンギス・ハンとの接点■
1227年にモンゴル帝国初代皇帝チンギス・ハンはなくなるのですが、クビライはチンギス・ハンと接点を持った記録があります。1219~1221年にかけてチンギス・ハンはイラン(ペルシャ)の侵攻を成し遂げた後、恐らく西方遠征に力を入れだした頃、1224年に孫であり四男トルイの息子であるモンケとクビライを初めての狩りに、イル河付近に連れて行っています。このときクビライは見事狩りを成し遂げたようです。
■③金王朝の領地の一部を貰う■
チンギス・ハンの後を継いだ第二代皇帝オゴタイは、南宋と組み、ついに1334年に中国の金王朝を侵略します。その後、オゴタイは新たに首都を定め、西方遠征や南宋侵攻などさまざまな方面に攻める遠征計画を建てます。しかし、父トルイがオゴタイに皇帝を関係もあり、クビライの家族はこの時期積極的に遠征に参加できなかったと言われています。4年前に父トルイは亡くなっているのですが、金王朝の領地の一部であった河北省あたりをオゴタイはクビライの家族に与えています。おそらく皇帝位を譲ったあともトルイに配慮していたとも考えられますし、この頃からオゴタイの相続争いも恐らく始まっていたと思うため、チンギス・ハン一族にはそれぞれ相応の配分をしたとも考えられます。
■④中国文化と接する■
こうして突然クビライは河北省付近(北京を囲む周辺辺り)の統治をすることになり、そのような経験がなかったため最初は地元の官吏たちが好き放題し重税などをかけたため、もともとその領地にいた者たちが逃げ出したようです。しかし、クビライはそれを上手く処理し、領民も戻ってきたとか。ただこの時期のクビライは元・金王朝に対する配慮のような行動をし、さらにその文化に触れたようです。まず1239年、二番目の奥さんをお貰いますが、これも儒教を伴った中国に対する友好を考えた結婚であったとされています。さらに1242年には、クビライは中国の北側の仏教界をリードする僧(ハイユン?)を、オゴタイが作った首都カラゴラムに招き仏教の哲学について教えを乞うています。その翌年に生まれた息子の名前をその僧が決めたほどのようです。そしてその僧からタオイスト(道家)を紹介してもらったり、当時の時の人でもある僧侶(劉秦中?という名前で、画家で彫刻家で詩人で数学家であったよう)をさきの僧侶が北京辺りにある寺に戻った後アドバイザーとして招いています。他にも山西省の学者(趙美?)なども招いているようです。そして、1251年に兄弟であるモンケが第四皇帝になった事によりクビライは、モンゴル帝国の中枢と関わることになります。しかし、この時の中国文化との深い交流は後にマルコ・ポーロやネパールの画家を招いたり多様な人を登用する姿勢に繋がったのではないかと思いました。
※英語版ウィキペディアを主に参照